オペラ・セリアとは、ヨーロッパで支配的だった、高貴かつ「シリアス」なイタリア・オペラの事であるが、当時は「オペラ・セリア」という言葉が使われる事は滅多になく、流行が廃れてから歴史的ジャンルとして使われる様になった。オペラ・セリアのライバルは、即興的なコンメディア・デッラルテを手本とした喜劇的なオペラ「オペラ・ブッファ」である。イタリア語で歌われる「オペラ・セリア」はイタリアだけでなく、イングランドや、ハプスブルク・オーストリア、ザクセンなどのドイツ諸国、更にスペインでも上演された。しかし、フレンチ・オペラが好まれていたフランスでは、オペラ・セリアは人気がなかった。
オペラ・セリアは、盛期バロック時代の厳格な「音楽による劇」の慣習に則って、A~B~Aの三部形式のダ・カーポ・アリアを発展させる事に拠って始まった。第一部Aはテーマの提示で、第二部Bはそれを補うもの、第三部Aは歌手による音楽の飾りと仕上げを伴う第一部の繰り返しである。形式が発展する中でアリアがどんどん長くなって行った為、一般的なオペラ・セリアの「楽章」は多くて三十位である。始まりは急~緩~急の三楽章(イタリア風序曲形式)の器楽曲の序曲(シンフォニア)で、それから登場人物の感情を表現したアリアと、台詞を含む一連のレチタティーヴォ、主役の恋人達二人に拠るデュエット(二重唱)で構成された。レチタティーヴォは通奏低音(チェンバロやチェロなど)のみの伴奏で歌われるレチタティーヴォ・セッコが一般的であったが、特に激しい感情を表す時は、全弦楽器の伴奏で歌われるレチタティーヴォ・ストロメンタートになる場合もあった。弦楽器とオーボエ(時にはフルート等)の伴奏でアリアが歌われた後、登場人物は退場し観客に拍手を促すのが慣習となっていた。これが三幕続き、そして歓喜のクライマックスとなり、陽気な合唱で締めくくられる。主演の歌手達には、それぞれのアリアの雰囲気(悲しみ、怒り、英雄的、瞑想的)を正しく表現する事が求められた。この時代は、高音で力強いソプラノまたはアルトを維持する為に、思春期前に去勢され、十何年間の厳しい音楽修行を積んだ才能ある男性歌手、つまりカストラートの台頭の時期となった。カストラートには英雄的な男性の役が与えられた。一方で「プリマ・ドンナ」も生まれた。そうした男女共に驚異的な技術を持つスター歌手達の出現は、彼等に見せ場を作らせる為の複雑な声楽作品を作曲家に作らせる事となった。この様にこの時代の多くのオペラは、特別な歌手の魅力を活かす為に書かれた。カストラートとして最も有名な人物はファリネッリである。当時の観客席と舞台は同じ明るさで、セットは、オペラを主催する宮殿建築をほぼ正確に再現していた。時にはオペラと観客の関連が密接な演出である事もあった。
イタリアの脚本家メタスタージョの最初の作品はセレナータ『ヘスペリデスの園』で、ニコラ・ポルポラ(後のハイドンの師)がそれに曲をつけ、それは成功を得た。この事で、高名なローマのプリマドンナ、マリアンナ・ブルガレッリが彼を自分の被保護者にし、ブルガレッリの庇護下でメタスタージョは次々にオペラ台本を書き、その一本一本にイタリアやオーストリアの作曲家達がそれぞれ別の曲をつけ、国境を越えてオペラ・セリアが流行した。オペラ台本には、古代(ギリシア・ローマ)の古典的キャラクターが主人公であるドラマが用いられた。主人公達にはいつも立派な価値と徳を付加し、愛・名誉・義務の間で葛藤させ、(オペラとしても非音楽劇としてもどちらでも上演が可能な)優雅で華美な言葉を喋らせた。台本の内容に関しては、ローマに拠点を置くアルカディア・アカデミーが演劇の三一致の法則(劇中の時間で一日のうちに(「時の単一」)、一つの場所で(「場の単一」)、一つの行為だけが完結する(「筋の一致」)べきであるという劇作上の制約)を遵守し「不道徳な」筋については書き換えた為、常に古典劇の悲劇的な結末はなかった。この時期の主要なメタスタージョ作曲家に、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージが居る。ペルゴレージはそのリシシズムが有名だった。彼は、レチタティーヴォ・セッコの型を破り、アリア・ダ・カーポの形式を完成させた。そして特定の感情を反映する為の調が、例えばニ短調は怒りのアリア、ニ長調は華やかさ、ト短調は牧歌的な効果、変ホ長調は愁嘆の効果と言った具合に、規則的に用いられる様になった。
そうしてメタスタージョ風は頂点を極めたが、その後人気を失い出した為、巨匠達は更なるオペラ・セリアの改革を試みた。その改革の頂点を極めたのがクリストフ・ヴィリバルト・グルックの改革オペラだった。『オルフェオとエウリディーチェ』に始まり、グルックは歌手に与えられる名人芸の見せ場、それ迄の退場アリアの伝統や、レチタティーヴォ・セッコを廃し(それに拠ってレチタティーヴォとアリアの輪郭描写は大量に減った)、イタリア・オペラとフランス・オペラの伝統を統合し、芝居・踊り・音楽の一体化に取り組んだ。オーケストレーションと重要な役割を持たされた合唱に最大の注意を払った結果、アンサンブルと合唱が主役となり、退場アリアの数は半減した。しかし、こうした傾向が直ぐに受け入れられた訳ではなく、まだまだ音楽界ではメタスタージョ風規範が優勢であった。
グルックの改革の後、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン、アントニオ・サリエリ(グルックの弟子)、ドメニコ・チマローザと言った作曲家達が登場した事で、新たにオペラ・セリアの時代が変化に富む事となる。アリア・ダ・カーポの人気は衰え、それらはロンドに置き変えられた。オーケストラは大規模化しアリアは長くなり、レチタティーヴォが一般的かつ精巧になった。それでも未だメタスタージョの台本はレパートリーとして人気があったが、一方で、ヴェネツィアの台本作家達の新しいグループが「死」や「弑逆」と言った悲劇的な結末を「例外」から「典型」に変える等、十九世紀のロマンティック・オペラの劇的な要素を生み出すきっかけを作った。がしかし、フランス革命の影響はイタリアにも及び、新しい平等主義の共和国が生まれ古い専制国家は消えて、支配者達はオペラ・セリアに見た様な非業の死と無縁でなくなった為、支配者階級と密接に結びついたオペラ・セリアは、必然的に終焉を意味する事となった。